幸せな最近の話

 シャワーを浴びようと靴下を脱いでから、随分と長い時間モニターとキーボードに向かい続けてしまっていたらしい。足先が雪のようになってしまった。寒い季節がやってくるぶんにはいいのだが、それに向けて自分はしっかりしなければ。

 

 最近は、こうして延々と内輪グループの公式WEBサイト制作に勤しんでいる。何かに一生懸命に取り組める状態に自分がある、という事実は幾分か幸福なことであるだろうし、そしてそれを自覚できるまでにはやや時間がかかる。私にとってその自覚ができたのが今日だった。

 私を今にも圧し潰そうとしている社会参加という重みの傍に立って見れば、今の私は時間を浪費している、と言ってしまえばそれまでなのかもしれない。しかし、ああして試行錯誤を重ねながらちまちまと細かい作業を続けることは性に合っている気がして気は悪くない。少し前まではこうして何かに夢中になれるような状態ではとてもなくて、今思えばずっと疲労感の中にいたように思える。色々あった、と簡単にごまかしておこう。

 とにかく、今は幸せな最近の話をしよう。

 幸せな、とは言うものの、これは前向きな意図での話題提起とは必ずしも言えない。幸せは、対に不幸せがあるから幸せで在ることができるからだ。私自身の感覚が基本的に信用ならないのもあって、感覚に頼って物を言うのは好かない。けれど、いいことがあれば必ず少し多くなって悪いことが起こる、そういった薄らとした絶望感、諦観のようなものを延々と抱いて過ごしている私にとって、幸せは衝き落とされるものだという感覚は拭い切れない。

 幸せを自覚するということは、不幸せへの転落が始まったからこそ初めてさっきまで峠にいたことに気付けるような、そういったものの前兆に思えてしまう。

 そういった前提を踏まえての、踏まえているからこそできる、幸せな最近の話。

 

 最近、妙に素敵なものに触れられる機会が多い。素敵なものに触れられるというよりは、素敵なものであると感じられる状態に自分があるという話なのかもしれないが。

 傷心にうまく噛み合った米津玄師の「YANKEE」は生活に関わらない出費としてはかなり久々のものとなったが、これは買ってよかった、と素直に思うことができた。前々から知ってはいたもののそもそも普段から金を出して何かを体験するという癖がまったく無い人間であったので、このある種の成功体験はいい機会になったに違いない。

「ああ、こんな私でも、意外なことに作品に何かを感じることができるのか」

 ふとそんなように思えたような気がする。次にはまさか映画館に自分が足を運ぶことになるとは、きっと、たとえば八月なんかの私は到底思わなかっただろう。

 

 観に行ったそれは「シン・ゴジラ」だった。何に衝き動かされたのかはもうわからないが、新宿駅の見知らない出口から、見知らない新宿の街を歩き、初めて来る映画館で、初めてひとりで立派に映画鑑賞の権利を買い得たのであった。はじめてのおつかい大成功と言うわけだ。

 映画を観て、(私らしくもないとは思うのだが)どこかぐらぐらとした興奮状態に陥った。間違いなく何かを感じることができていた自分への困惑もしながら、その後しばらくは内輪のチャットだのSNSだの他人様の目につくようなところでグダグダぐだぐだと言葉になりきらない幼稚な感想をばらまいていた。

 感想を書くために筆を執ったわけではないので、具体的な感想は控えさせてもらおう。

 

 また、誰かと遊ぶ、というのもまたひとつの大きな幸せとしてあった。ここしばらく友人と面と向かって一緒に遊ぶ、といったことがなかったのもあり、ひとつゲームの名前を友人から聞くと不思議なことにさっさと購入を決めて注文してしまった。「ゼルダの伝説 トライフォース3銃士」で正式名称は合っているように思う。

 要は3人で力を合わせてパズル要素の散らばったコースを進んでいく携帯ゲーム機用のソフトだ。これがとても楽しく思えるのだ。適度に頭を使い、適度に人とふざけあい、そして毎日のようにおおよその時刻をきめて取り組める。いい友人に恵まれているとも思えたし、毎日同じような時間に笑いながら一日を終えられることの幸せというものはなかなかに得難い経験のように思えた(自分だけがそうでなければいいのだが)。

 とはいえ何か思うものがある時間というものはどうしても訪れ、こうして朝の5時半を過ぎるまでかたかたと不幸せにキーボードを打ち鳴らしてしまうことも起こりうる以上どうしたってそこに説得力は無いのだが。

 

 とにもかくにも、幸せな最近の話とはこういったところだ。拭い切れない絶望と諦観はどこへいっても付き纏い避けようがない。けれど、拭えない程度だとしても、せめてこのあたりが人生の日々の平均的な幸福度であったら、きっといくらかましな心持ちでこれからの先を騙し騙し繋いで生きていけるのになあ。そういった話をふとしたくなっただけなのだ。

 へたに調子がいいとそのぶん喰らうしっぺ返しが恐ろしくなるし、そうでなくともこのゆったりとした幸せが必ず終わることも知っているぶん、このあたりの幸せにいつも戻ってこれればいいのになあ、と。常日頃からろくなことを考えていないような自分なので、こうして思ったところでどうにもならないことも当然浮かぶというものだ。

 こうやって、幸せだの不幸せだのといったことを考えずに済むような本当の幸せを希求したら赦されないだろうか。そういったいやなものを隅に押し退けつつ、先送りつつ、時間も時間なので、このあたりにしてシャワーを浴びよう。

 

 だって、絶望はいつでもできる。ほんとうに、いつだって。

 

 いやだねえ。